みなさんこんにちは、吃音と戦う社会人、F丸です。僕は知っての通り、吃音があります。
今回は「吃音」という症状が、僕の人格形成にどのような影響をもたらしたのか、書いていきたいと思います。
①最初に、僕は自己肯定感があまり高くありません。正確に言えば、高くあり「ません」でした。なぜって??それは世俗的に「普通の人間」が可能な、「言葉を思い通りに発する」という行為ができないからです。頭が良くても悪くても、教科書通りに読む。バイト先でマニュアル通りのフレーズを使って接客する。周囲の人が当たり前にできることが僕にとっては地獄でした。小学校・中学校の朗読では順番が回ってくることや、先生から指名されることを極端に恐れましたし、大学のバイトではコーヒーの種類が上手く言えない(とあるコーヒーチェーンのバイト)など、本当に自己肯定感が低くなることばかり。自分でも悔しくて仕方ありません。同じ吃音症状をお持ちの方はよくお分かりになると思いますが、吃音症の科学的エビデンスのある改善策がないために、改善しようにもどうしようもないのです。カミングアウトは出来ず、改善策もない。そんな僕は自己肯定感が低いまま、学生生活を送り、、かけました。
そんな僕を救ったのは部活動でした。高校時代、とある運動部に所属していた僕は、偶然にもそのスポーツで自分の体格の良さと視野の広さを活かしたプレーで活躍をし、周囲から一目置かれる存在となりました。人間、本当に面白いものです。一度調子に乗ると、(いや、僕がこれまで自己肯定感が低かったから尚更かもしれませんが、)自分の性格とは思えないほど楽しくなって部活動にのめり込みました。のめり込むほど、僕の実力は高まり、チームでも不動の存在になりました。自分の自己肯定感が爆上がりした瞬間でした。周囲から見られている。この事実は、僕のパラダイムを大きく変えたのです。具体的にどういうことか?
これまで僕は、周囲から目立たないよう、クラスや他のコミュニティでもどちらかというと陰の存在でした。それが部活動を始め、周囲から目立つ存在になると、「周囲から良く見られるためにどう努力するか」という新しい一面が自分の中で生まれてきたのです。ただし、新しい一面が生まれたからといって吃音症が治るわけではありません。むしろその逆です。注目されればされるほど、僕は緊張して吃音の症状が発現し、そして周囲からの痛々しい目線に耐えなければなりませんでした。「活躍はしているけど言葉が少し不自由なやつ」という認知をされていたと思います。悔しい、絶対にこの症状を克服してやると、この時僕は強い決意をしていました。それは自己肯定感を高めた僕の、新しい決意でした。
現在吃音に悩んでいる皆さん、皆さんはひょっとすると吃音で生まれたことを恨み、憎んでいるかもしれません。僕もそうでしたし、100%それが消えたわけではありません。しかしながら、何か自分の得意分野を見つけ、それに熱中してみる。それが自己肯定感向上に繋がり、ひいては自身のパラダイムも変化することができる。僕はそう信じて、今も自分からどんどん挑戦しています。「持つもの」と「持たざるもの」に二分される人間においては、吃音症の我々は「持つもの」です。自分たちが特別な存在であることをチャンスと捉え、行動していくことが本当に大切なことであると僕は信じています。
続きはまた次回。それではまたお会いしましょう!
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